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こんばんは。もうすぐ2回目の成人式を迎えるoicchimouseです。いぇ〜い٩( 'ω' )و
というわけで今日は、
〜自分が自分に帰る時間〜その日の気分で選ぶ『大人におすすめの詩集3選』
と題しまして、oicchimouseおすすめの詩集を紹介させていただきたいと思います。
今宵は極上の詩と共に過ごす大人時間。
お好きなお酒とおつまみの準備ができたら……
さあ。
日々、凄まじいスピードで流れ去る時の砂を、あなたの手の中に取り戻しましょう。
「大人でいることに疲れてしまった」時に読む詩
『子供の詩の庭』
ロバート・ルイス・スティーブンソン
池澤春菜・池澤夏樹 訳
毎日新聞出版
〈この本を読む君へ〉 To Any Reader
おうちの中から、お母さんが
庭の木の周りで遊ぶ君を見ているみたいに
もし君が、この本を窓にして中を覗いたらさ
別の庭で遊んでいるちっちゃな子が
遠く遠く、見えるかもしれない
だけどね、窓を叩いて大きな声で
その子を呼んでも聞こえない
遊ぶのに夢中だからね
聞こえないし、見えてない
本の中からは出てこないんだ
本当のことを言うとね、ずーっと昔に
その子はすっかり大きくなって、行っちゃった
君が見ているのは、その子の心だけ
昔、この庭で遊んでいた、その子の心なんだ
(本文ママ)
『宝島』『ジキル博士とハイド氏』で有名なスティーブンソンによる詩集『子供の詩の庭』。
画家のマートル・シェルドンの印象的で美しい挿絵が、読者を詩の世界に優しくエスコートしてくれる。
世の中には、挿絵の主張がくどすぎて、肝心の詩について想像の余地を全く与えてくれない作品も結構あるが、この作品においては、そのような心配は全くない。
詩が一編終わるごとに5〜6行程度の訳者の小さな一口解説が入っているが、これも、読者から詩を味わう自由を奪うなんてことはなく、読み終わった詩の世界をさらに広げるために一役買ってくれている。
子どもがみんなで遊びに夢中になって、心底のめり込んでいる時にだけ姿を現す「特別な世界」は、本当に不思議で魅力的なものだ。
その時、一緒に遊んでいる子どもたちの間で共通認識されているこの特別な世界は、遊びが進めば進むほど、リアリティを増してゆき、それは子どもたちにとってもう一つの現実の世界となる。
昔の外国の詩なので、私たちの子どもの頃の情景とぴったり一致するわけではないが、それでも、ところどころに懐かしさや何気ないけれど印象に残っているあの日の一場面、幼い頃の空気感が記憶の中から次々と呼び起こされる。
「不可思議でちょっと妖しい世界に足を踏み入れたい」時に読む詩
『ライラックの枝のクロウタドリ』
ジェイムズ・リーヴズ
エドワード・アーディゾーニ 絵
間崎ルリ子 訳
こぐま社
この詩集には愉快で楽しいものも収録されているが、ただ、愉快で楽しいだけの詩集では決してない。
どこかにうっすらと暗い闇をはらんでいるような不思議な妖しさのある詩集だ。
現に、幽霊や亡霊の登場頻度が非常に高い。
日常の中にある奇が見え隠れするような……。
だからこそ、この詩集において最後の締めくくりの詩〈家へ帰る時間〉が重要な意味を持ってくるのだろう。
そして、とにかく間崎さんの翻訳センスがきらりと光っている。
また、デ・ラ・メアの『孔雀のパイ』と同様、アーディゾーニの挿絵も相変わらず素晴らしい。
「難解な言葉が渦巻く沼に全力で沈み込みたい」時に読む詩
『リルケ詩集』
ライナー・マリア・リルケ
富士川英郎 訳
新潮社
二十世紀前半のドイツにおける詩の巨匠、ライナー・マリア・リルケの詩の中から(『時禱集』(Stunden-Buch,1905) 以後の詩のうちから)特にリルケ的な特徴の著しいものを、リルケ研究で知られるドイツ文学者の富士川英郎さんが選び出した選集。
一応巻末に簡単な言葉の注釈はついているものの、真にこの一冊に収められた詩を理解しようとするなら、リルケ自身の人物史、新約聖書、当時の時代背景、各分野の芸術史、ギリシャ神話…などの周辺知識が不可欠だと思われる…
が、しかし読者は学者ではないので、必ずしもそこまでする必要はない。
では、どのように楽しめばよいか。
ここに一つ参考になる記事がある。
朝日小学生新聞記者の中塚慧さんが2013、15、22年に谷川俊太郎さんにインタビューをした時に心に残った言葉を紹介した記事だ。
・詩は理解することよりも、味わうことのほうが大事
・なんとなく好き、なんとなく気に入らない。それでいい。
・理想の詩は草花のようなもの。見た人が『きれいだな』と思ってうれしくなったり、なぐさめられたりするものがいい
(2024年(令和6年)11月20日発行 朝日小学生新聞一面記事より一部抜粋)
リルケ詩集は難解だが、読者の手に渡った瞬間その中の「言葉」は全て読む人のものだ。
「わからない」
「なんか心地よい」
「こういう感覚知ってる」
「もしかして」
「音が聞こえる」
「この景色は」
「やっぱり難しい」
「わからない」と「わかる気がする」を行ったり来たりする時間。
リルケが紡ぎだす言葉の沼に沈み込んだり浮かび上がったり。
詩の楽しみ方はきっとそれでいい。
〈読書する人〉(形象集より)
私はもう永く本を読んでいた 今日の午後が
雨に騒めきながら 窓によりそっていたときから。
戸外(そと)の風はもう少しも聞えなかった
私の本は重かった
私はその頁をまるで瞑想にくもる
顔のように覗きこんでいた
私の読書の周り(まわり)には時が堰(せ)かれて溜まっていたー
[中略]
そしてこことかしこと すべてに限界はないのだ
ただ 私をもっとそれらのものと織りなせばいいのだ
私の眼がいろいろな事物(もの)に適い(かない)
群衆の真面目な単純さに適う(かなう)ならばー
そのとき大地はおのれを乗り超えてひろがるだろう
大地は大空をことごとく抱擁するかと思われ
最初の星は最後の家のようだ
Der Lesende
(本文ママ)
上記の詩はリルケ詩集の中の一編だが、比較的他のものに比べると身近な雰囲気で共感しやすい。
そう、
oicchimouseが「なんとなく好き」な詩なんです。
さて、今宵はどんな気分ですか?