
◎当ブログはアフィリエイト広告を利用しています。
『昔話における語法とその深層構造 ―物語の「筋力」と虚実皮膜論の視点から―』
oicchimouse・著
1. 形式としての「切り紙細工」
日本における昔話研究の第一人者である小澤俊夫氏は、その語法を「切り紙細工」や「図形的」と形容した。心理描写や風景描写を削ぎ落とし、残酷な場面も平面的に淡々と語る。この徹底した「形式化」こそが、聞き手である子どもの恐怖を和らげ、安全にお話の世界へ誘うための「語法」であることは、今日、定説となっている。
2. 「安全性」の向こう側にある「筋力」
筆者はこの語法の理論を高く評価した上で、さらに一歩踏み込み、子どもを惹きつけてやまない昔話の筋力の正体を考察する。
形式によって守られた昔話の世界の奥底には、数百年の歳月を経て口承され、鍛え抜かれた強靭な「物語の筋力」が宿っている。
この「筋力」は、現代の読書離れが進む児童や、すでに読み聞かせを卒業した高学年の児童や大人が、本能的に昔話に強く惹かれる現象を説明し得るものである。
3. 和歌山県の昔話に見る「結句」の欠如と虚実皮膜論
この「筋力」が最も純粋な形で現れるのが、物語と現実の境界線である。
かつて近松門左衛門は、芸術の本質(人を惹きつけるおもしろさ)は「虚(虚構)」と「実(事実)」の間の薄い皮、すなわち「虚実皮膜」にあると説いた。そして、おもしろいことに、この理論は、まさに昔話の本質にもぴったりと当てはまるのである。
筆者の故郷である和歌山県の昔話には、特有の「結句」(=おしまいの言葉)を欠く事例が散見される。これは、この地域の昔話が家庭内の日常的な会話から地続きに発生し、現実の世界(世間話)と物語の世界(昔話)の境界が未分化(あいまい)な状態であることを意味すると言われている。
また、「結句」がはっきりとある地域の昔話であっても、その物語の内容自体はたいてい市井の人々の日常の風景の中からはじまり、昔話の登場人物は、いきなり動物が喋りだしたとしても、そのこと自体には驚かない。
このことに関しては、昔話を中心とする口承文芸研究の世界的権威として知られるスイスの学者マックス・リュティも、その著書『ヨーロッパの昔話』において、「昔話の人間たちには自分と彼岸者とのあいだの隔絶の体験はない。」「昔話のなかには超越的な不安とか、超越的な好奇心というものはない。」と述べている。
昔話の中で起こる出来事は、日常の中に見え隠れする「奇」そのものであり、現実の世界と物語の世界を隔てているのは「極めて薄い皮」なのである。





4. 日常の中の「奇」として
「家庭内での会話」が語法を持つ昔話に姿を変え、「こちら側」と「あちら側」の境界線が明確に引かれても、その「皮膜」の薄さがもたらす独特のリアリティは存在し続け、決して消えるわけではない。そして、それこそが、物語の筋力の正体なのではないだろうか。日常の中に見え隠れするような魅惑的な「奇」の手触り。
小澤氏やリュティが説く「平面的な形式」と「語法」によって作られた物語の「境界線」。これにより子どもたちは、確実に安全を担保されながらも、【虚実の境界線にある皮膜】にしっかりと触れることができるのだ。
以上のことから私は、子どもだけでなく、大人の心も強く惹きつけてやまない昔話の「筋力」の正体とは、すなわち、昔話の深層構造における、この『皮膜』の存在にあると考える。

〈参考文献〉
※近松門左衛門の虚実皮膜論については、国文学科在籍中に近松門左衛門研究がご専門の近世文学担当教授よりご指導いただいた内容になります。